Episode II　　　　こうべのまち

いつも木曜日は定休日と決めている。 　曜日の意味も薄れているこんな世の中、週一度の定休日などにこだわる理由は何もないのだが、あたしにはこれは一つの習慣になっているのだ。逆に、木曜日に店を開けると完全に調子が狂う。 　しばらく卵を切らしたまま買い出しにも行かず、最近はなかなか定期的に来てくれなくなった移動商店は、今週もやっぱり来なかった。おかげで先々日、ついに胡椒も切れた。 　昨日あたりはそれでもなんとか料理を作ったが、さすがに味気ない。移動商店のおかげで普段は街まで出かけることも少ないのだが、こうなってしまった以上、食料を買い込んでくるしかない。 　まぁ、街もそれほど遠いわけではない。往復するとそれなりの時間だが、ほかにも必要な品があるのだからと、それらの買い出しのためにも、久しぶりに街に出かけることにした。 　昔は日本で最も栄えた港の一つだった神戸港の埠頭から、高層ビルの建ち並ぶ官庁街、海岸線を覆う工場群、人のあふれた昔の繁華街、そうしたかつての街並みの多くがもう海岸線の向こうになったいま、市街地の中心は高台の六甲(注１)に移っている。以前の「県庁」……今は「国会」と言っているが……のあたりに海が近づき、今の「ひょうごの国国会」が高潮を避けて、長い間使う人のいなくなった神戸大学跡(注２)に移転したこともそれを手伝っていた。 　神戸の街は、東西に走る主要道路と、それを南北につなぐ梯子の段状の小道で構成されていて、海沿いの都市としては珍しく、街の交通路は無事なほうだ。もちろん、かつては多くの車が走った二号通りはもう水の中だが、もう一本上に、あたしたちが今、単に「中央通り」などと呼ぶ大通りがある。これはいまでも丹念に整備され、快適に走ることができる。 　朝のうちに畑や家の用事をすませると、出発するのは昼食後になった。車庫からバイクを引っ張り出すと、帰りに荷物を縛るための紐を荷台に巻きつける。財布の中の現金を確かめ、後ろ腰に鉄砲の入ったホルスターを結びつけた。先生に勧められて持ち歩くようにした鉄砲だが、実際には一度も使ったことはなく、弾も何年も入れっぱなしだ。それでもやっぱり、これも習慣になっている。 　しばらく使わなかったバイクは、キーをひねると不機嫌そうに体を震わせ、マフラーからは白煙が吹き出す。あたしはバイクをしばらく置いておき、機嫌が直るのを待って道に乗りだした。 　店の外に出ると、もう秋の気配は強く、さすがに風は冷たくなりつつあり、眼下の斜面もそろそろ紅葉が始まっている。急な斜面の途中に建つ店から乗り出すと、でこぼことした急な下り坂を駆け下りながら何軒かの異国風の家の横を抜ける。舞い積もるの落ち葉と、ぽっかりと口を開けたガードレールの切れ目を気にしながら斜面にそって斜めに進むと、坂の下りきった道の左手に、見上げる首が痛くなるほど背の高い建物。角度によってエンピツのように見える独特のフォルムは、なんとなく積み木みたいで楽しい。ノッポビルなどと、愛嬌のある呼び名がついているが、なんとなくぴったりしている。 　すぐにバイクは、大きな交差点にさしかかる。このあたり、右手はススキと灌木と草むら、所どころに立つ大きく育った木々、その中に思い出したように立ちつくす半ば壊れかけた家といった風景が、緩やかにスロープを描きながら海まで続いていて、ただでさえ無闇に広い交差点の周囲はぽっかりと開けている。交差点の信号機はまだ明かりが消えず、来ることのない車の安全のために光り続けている。 「がんばれ」 　あたしはつい、そんな信号機に声をかけてしまう。 　右手には高い尖塔。その先端には、透き通った空と秋の日差しの中、十字架が高くそびえている。昔、この街で大きな地震があったとき、この十字架は傾いて人々に悲劇を伝え、街が復興したとき、再びまっすぐに建て直されて人々の強さを知らせたという。今は十字架は、ツタにくるまれて静かに木々を見守っている。あたしとバイクは、その尖塔を背に感じながら進む。 　いつもの風景。でも少しずつ変化している。その変化を思い起こしながら、あたしは全身でその空気を受け止める。 　あたしは他のロボットと少し違っているところがある。それは、一度見た風景をけして忘れないことだった。だから、こうしてバイクで道を走っていても、記憶をたぐれば昔の街並みを完全に重ね合わせることができる。 　それはあたしの脳の欠陥が原因だった……あたしをのことを世話してくれた子海石先生（アルファタイプ開発関係者であり、医者という人物だ）の言葉を借りれば、視覚に関しての「忘却プロセス」に問題があるため、ということらしい。 　子海石先生は、あたしがこうして覚えているのは現実に見た風景ではないのだ、とも言っていた。それはあたしが見た「印象」なのだそうだ。普通の人間も、何かを見れば何かの「印象」を受け、それを心に止める。あたしはその「印象」が細かな映像の形をしていて、それが忘却プロセスを通過して記憶に蓄積されてしまうのだという。 　正直言って、ちょっと難しい話でよくわからない。しかし、あたしの記憶が細部では現実を写した写真とは異なっていることには気づいていた。だから子海石先生が正しいことは理解している。 　もちろん、あたしが見てきた神戸はいまの神戸とさほど違うわけではなく、せいぜい、海岸線がもっと下の方にあったくらいだ。しかし、その「さほど」の中には、様々な小さな変化が含まれている。朽ちるに任せた家が大地へと帰り眠りにつく様、草と灌木が競争しながら布団のようにそれらを包み込む様、頑固に、たじろぎもせずたたずむコンクリートの壁。そして、それらがそっと秘めた思い出たち。 　限られた時期の記憶でしかない。しかし、それでも大切な変化の記憶。神戸に来たとき、その変化を出来るだけ見てゆくよう、あたしは先生に言われていた。その言いつけをできるだけ守っていきたいと思っている。 　信号の十字路を過ぎ、バイクを走らせる。ここからの「中央通り」には、左右と中央分離帯それぞれに並木がある。かつてはこぢんまりとしていたであろうそれらの木々の樹高はすでに数十メートルに達し、はるか天をついていて、道にはトンネルのようなほのかな陰が満ちている。通りはところどころで瓦礫に狭められながらも、左手に急斜面を見ながらまっすぐ進む。 　道は少しずつ下り、右手の鉄道の高架のむこうから時折、きらめく水面が見え隠れする。左の山手(注３)のほうは雑木林で、背景には六甲山系が鮮やかな姿。見えるところに所々、人の気配のある家が建っているのは、このあたりで農業をしている人たちの住居なのだろう。 　道沿いに静かに立ちつくす病院跡の前を抜けると、やがて左手は大きな公園、正面には駅舎跡だ。道は鉄道の高架の下をくぐり、バイクではなく車で移動するときは、こちらに進んで行く。だがあたしは、その手前で一度、鉄道跡に沿って左に入り、数十メートルほど左手にある、別の道で高架をくぐる。 　あたしのお気に入りのコース。 　薄暗いガード下をくぐった途端、左右にはかつての商店街の高い建物が建ち並び、道の雰囲気ががらりと変わる。人の姿もなくすっかり色褪せたその街並みも、かつての賑やかさを伝えるには充分なほど、強烈な印象を秘めている。まるでよくできた遊園地みたいだ。 　華やかな記憶を湛えた街区はすぐにアーケードになる。かすかな影に包まれた道の両側には切れ目無く並ぶ建物。草や動物、鳥たちが今の住人だ。その中に、持ち去られることを諦めた看板たちがちょこんと間借りしている。 　なぜだかあたしは、ここの空気が大好きなのだ。 　落ちた屋根の残骸を避けながらも、あたしはバイクを軽快に飛ばす。数分ほどでアーケードの終点、まるでトンネルから出る時のように、視界を明るい光が満たし、あたしとバイクは、軽やかにその中に飛び出してゆく。 　そのまま、細い細い道を百メートルほど進み、大きな、白い、四角な形をしたデパート跡の横に出ると、少し先で道をくぐる細い川の気配に気づく。このあたりから、それまでの静寂が嘘のように、街には急に人の気配が満ちあふれる。あたしはつい、その先の交差点でバイクを止めると、人混みに特有の空気を大きく吸い込んだ。 「国境の長いトンネルを抜けると、そこは街だった、なんてね」 　古い小説の下手な引用をして、自分で照れ笑いをしてしまう。 　新しい空気を少し楽しんでから、目の前の川を渡り、その先の南北に走る大通りを登る。 　このあたりは、別の意味で「変わっていない」地域だ。正確に言うと、いつ来ても何かが変わっている。しかし、総体で見れば、いつでも活気あふれ、いつでも独特の空気が流れている。いかにも「街」の空気だ。それは、古いようで新しいようで、なんだか不思議な印象がある。 　前方には踏切跡。手前で右折し、鉄道沿いにしばらく入って行くと、駅舎跡に出る。このあたりから、東西方向に新しい商店街が始まる。目の前にはものすごい人混み。うちの家のあたりからはとても想像ができない。いったい、どこにこれだけたくさんの人がいたのだろうか。久しぶりにこうして人いきれにあたると、なんだか目眩すら感じ、それがまたうれしくて、なんだかワクワクする。 　駅舎跡の先の踏切跡を横切ると、駅のロータリーだ。あたしと同じようにバイクで来た人たちが、すでにこの空いた空間に何台か停めている。色とりどり、種類も色々。たくさんのバイクで狭くなったロータリーをバイクを降りて押し歩き、その一角に停めるとエンジンを切った。 「えっと、黒インク、石鹸、機械油、胡椒、五号の釘、卵……」 　必要な品々を思い出し、指折り数えながら、人混みの中をゆっくり歩く。買うべき品はけっこう多いが、一度に買いだしてしまえばあとが楽だ。広いロータリーをまっすぐ横切ると、商店街の入り口にさしかかる。 「さて、奥から攻めていくかな……」 　そう言いながらもあたしは、ついつい、ちらりと左手の店を見てしまう。古い建物の一角を占領した小さな店舗の中に、色とりどりの洋服が、ところせましとぶら下がっている。 「あ〜、だめだめっ」 　あたしは首を振って自分に対してそう言い聞かせると、後ろ髪を引かれながらも、人混みを縫って上り坂を歩き始めた。 　それにしても狭い通りには、自分の足下すら怪しいほどの人、人、人。ほとんど前が見えない。神戸も広いのだから、なにもここまで一箇所に人が集まってこなくてもいいと思うのだが、やはり人間、そういうわけにはいかないのだろう。 　もちろん、あたしはこういう雰囲気、嫌いじゃない。 「サンマ、入っとうで〜！」 「さぁ、新鮮なお野菜、秋の味覚や〜」 　売り子の声が乱れ飛ぶ。これも変わらない風景の一つだ。つい目移りがする。一人暮らしである以上、そうたくさんは買って行けないとは言え、やっぱり色々と気になるのは否定できない。あたしは横目で見ながら通り過ぎようとするが、やっぱり足はとまる。 　それにしても、食べ物も最近すっかり季節感が出るようになった。もちろん、以前よりずっと暖かくなっているから、昔と同じ季節感というわけにはいかないだろう。それでも、それぞれの季節に、季節の食べ物がある。あのにぎやかだったころの記憶と比べると、逆に少し変な感じだ。 　ふと気づくと、買い物袋には、いつのまにか荷物。つい苦笑い。雑貨や、食料品店、金物店、まわる場所は何軒もある。そのどこもが、今はすっかり馴染みになってしまった。顔を合わせると近況を語り合う。おかげで、買い物はさらに進まない。まぁ、最初からこれは予定に入っているから、今更困ることはないし、どうせ今日はヒマだ。 　ただ困るのは、なんだか楽しい気分でいるうちに、ふと気づくとどういうわけか、荷物は予定よりもどんどん大きくなっていること。またやってしまった、という感じ。 　だが、最大の難関は最後に控えていた。そう、最も難しいのが、やっぱり初志の貫徹。 「あれま、みかげちゃん久しぶりやないの」 　必要な品を全て買ったにもかかわらず、なんだかまだ心残りのあるまま坂を下っていたあたしを、誰かが「一人で五人分騒々しい」と形容した、大きな声が呼び止める。この店のおばちゃん、すごく好きなんだけど……。 　ああ、そっちを見ないようにしてたのに……。あんな大声で呼ばれたら、もうさすがに「聞こえなかったふり」はできない。 「えっと、久しぶり……」 　しかたなくあたしは、愛想笑いを浮かべてそちらに向かって軽く会釈をしようとしたが、そんなことにお構いなく、おばちゃんはすでにあたしを店に引き入れている。そして、あたしが口を開く間もなく、まるで立て板に水のごとくまくし立てられる。 　初めて会った数年前から何も変わっていない、元気いっぱいの服屋のおばちゃんが、いつのまにかあたしの手をとっている。どうにも逆らえないのは、きっとこのおばちゃんの人徳なんだろう。 「せっかく、みかげちゃんに着せたげよ、思うて仕入れといたんよ。なんや、そなとこでぼぉっと立っとらんと、入りぃや、ささ」 「う、うん……」 「これ、どや？　ほらほら、ロボットはんかてお洒落せなあかんて。女を忘れたらおしまいやで」 「えっと……」 　どうも彼女は喋るのに息継ぎが必要ないらしい。絶え間ない声を聞いているうちに、いつの間にか荷物は部屋の片隅の椅子の上、目の前にはすでに、いく品かの服が積まれている。ここまでくると一つの名人芸だ。ちょっと勝てない。おばさんは、色々言いながら、さらに次々と服を積み上げてゆく。まわりの常連客はというと、そんなあたしをみて苦笑いだ。 　こうして見せられると、買わないつもりでここに来たのに、やっぱり気になる。つい、その中で目についた草色のポンチョに手を出してしまう。 「あれま、それ、お気に入りやの？　ええで、安うしとくで」 「……あ……」 　結局この調子だ。とても逆らえない。これが計算尽くだったらたいしたものだが、この人はどうも、これが地らしい。 「これな、みかげちゃんに絶対、あう思うてたんよ。ほら、見てみ」 　おばちゃんは、服を広げてあたしに押しつけると、鏡の前へとひっぱっていった。 「みかげちゃんの髪、茶色いうか赤に近いやろ？　この色、絶対あうて」 　そう言われてあたしは、思わず髪に手をやってしまった。あたしの髪はアルファタイプとしては比較的地味なほうで、まさに「人間」に近い。それこそ染めた髪だと言い張れば通りそうなくらいだ。なのに、今でも髪のことを言われると少し気になる。 　とはいえ、色に関してはおばちゃんの言う通りだった。どこかくすんだ風景の多いこの街で、鮮やかな草色は少々派手な感じもしたが、髪の色との対比という点では文句のつけようがなかった。 「どや、ええやろ？」 「う、うん」 　あたしは頷いてしまう。おばちゃんはにこにこしながら、鏡ごしにあたしを見ている。すでにおばちゃんのペースに乗ってしまったあたしは、もうすでに、これが欲しくてたまらなくなっている。 　おばちゃんはもちろん、そんなあたしの心の内をきちんとわかってる。 「ほな包んどくで」 「あ、それなら……」 　おばちゃんにポンチョを手渡すと、なんだかヤケになったあたしは、店の一角に下げられたセーターの列を指さした。 「あれもお願いしようかな。ほら、あの青いの」 「これ？　ええの、こんな色で」 「え〜、あうと思うけど」 　あたしの指し示す、青い（どっちかって言うと「碧」に近い）タートルネックのセーターをおばちゃんが手にとってもどって来た。これをポンチョを合わせてみる。こんどはおばちゃんが驚く番だった。 「ほんまやねぇ、意外やわ。きれいやねぇ。せやな、これから寒(さむ)なるし、ええんちゃう？」 「へへへ、そうでしょ。実はね、前から目をつけてたんだ」 　つい照れ笑い。でも、目をつけていた、というのは嘘ではない。ただ、際限なく服を買ってしまうのがなんとなく怖かっただけだ。もちろん、あう服がない、という、至極もっともな理由もあったのだが。 「ほな、これも一緒やな」 「うん、お願い」 　おばちゃんは顔をほくほくさせながら、店の奥の机で服を包み始める。あたしは他の常連と、つと目が合い、互いに苦笑いが浮かんでしまう。 　包みを作りきらないうちに、おばちゃんが他の客に声をかけられている。小さな店だからこんなこともある。 「悪いなぁ、ちょっとだけ待っててんか」 「いいよ、ゆっくりしててよ」 　言いながらあたしは、そんな彼女の様子を見ていたが、見てるうちに何人も客がやってくる。あたしは別に気にすることもなく、自分の荷物の隣の椅子に腰を下ろした。ようやく客の列がとぎれ、あたしの服の包みができたのは十分ほど経ってからだったが、すっかりくつろいでしまったあたしは、昼からずっと歩き続けた疲れが出て、立ち上がるのが少し億劫になっていた。 　気がつくと、客の波が去り、いつのまにか店はがらん、としている。いるのはおばちゃんとあたしだけ。客商売に時々訪れる休息時間。おばちゃんも、あたしの隣に腰を下ろした。 「茶ぁ、する？」 「あ、うんうん」 　あたしが言い終わる前に、すでに湯飲みは二つ出ている。お茶がなみなみと注がれた湯飲みが差し出されると、あたしは両手で受けとった。そろそろ肌寒さを感じる風に、湯飲みで手が暖かい。 　が……。 「わ……これ、すごい臭い……」 　あたしが思わず顔をしかめる。 「メグスリの葉のお茶や、飲みぃな。身体にええねんで」 「身体にいい、って、そんなこと言われても……」 　あたしは渋々、濃い茶色をしたその液体を口に入れた。臭いの印象ほど味はひどくないが、それでも独特の苦みとえぐみが舌をつく。けしておいしいとは言えない。 「ほら、嫌がらんと、肌綺麗になるで。見てみ、うちの肌」 「あの〜、あたしには関係ないと思うんだけど……」 「…………」 　おばちゃんが、きょとん、となり、一瞬、間をおいて大笑いした。 「あはは、そやなぁ、忘れとったわ」 「忘れるようなこと？」 　眉をひそめながらも、あたしはお茶をすすった。まぁ、慣れると我慢できないほどではない。 　湯気が眼鏡にあたってほのかに曇りを作る。苦いお茶を口にふくみながら視線をふと上に上げると、秋の短い日はすでに傾き始め、店の中に斜めに差し込み始めている。それに気づいたあたしは、不意にしんみりとした気分になって、その光の行方を目で追った。 　ふと横を見ると、おばちゃんもほの赤く照らされた通りを眺めている。 「平和、やねぇ」 「うん」 　あたしたちが交わすのはなぜか、短い言葉。なんだかそれで、気持ちが伝わるのが心地言い。店内から見る通りの風景は、一番美しいところだけを額縁で切り取ったようで、独特の雰囲気がある。 　なんとなく、まったりしてしまう。 　しばしの沈黙を、不意の客の声が破った。 「おばちゃ〜ん！」 「はいな、どれを買(こ)うてくれんの！？」 　立ち上がったおばちゃんの声は、もう明るい、商売人のものだった。あたしは急に現実に引き戻されて、つい苦笑いした。 「あ、おばちゃん、あたし、帰るよ」 「なんや、もっとゆっくりしてけばええのに。ほな、また来てや」 「うん」 　服の包みは、きちんと紐で縛ってあり、持ち手までついていて、すごく持ちやすい。思わぬ気遣いに、あたしは微笑んだ。 　包みは思ったよりも大きかった。おかげで荷台には、今日の買い出しの成果がうずたかく積み上げられることになった。当分は買い物をしなくても間に合うほどの食べ物。その高さを実際に見たあたしは、またまた苦笑いしてしまった。 　いつものことだが、自分でもあきれるばかり。でも、ちょっと楽しい。 　あたしは、何も変わらない六甲の街の様子に安堵しながらバイクを走らせていた。それがなんとなく余韻になって快かった。 　途中、大きな荷物に三度もバランスを崩したが、なんとか無事に家にたどり着いた。

注１　六甲：　ここで言う六甲は、六甲山ではなく、灘区の六甲地区のこと。神戸大学から下った場所にあり、高台の高級住宅街の一角。<< 注２　神戸大学：　関西でもかなり大きな部類に入る大学。六甲地区の高台にあり、神戸の街が一望できる。広くて起伏に富んだキャンパスも特徴。通称「しんだい」<< 注３　山手：　神戸の人は、高台を「やまて（山手）」、海岸沿いを「はまて（浜手）」と呼ぶ。「山の手」ではないので注意。<<